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| ―反転、フォルムから「純粋空間」へ ロバート・C・モーガン 近年ミニマリズムが芸術の潮流を変えるほどの影響力を持ったということは否定できないし、桑山のリダクティヴな姿勢がそうした歴史と間接的につながっているという事実も無視できないが、リダクティヴな姿勢を取る芸術がすべてミニマル・アートであるわけではないという点は明確にしておくべきだ。 桑山は画家として、より正確にはリダクティヴな画家として、50年代の終わりにニューヨークで出発した(この地で彼はついに、かの有名なグリーン・ギャラリーで個展を開催した)が、重要なのは、彼の作品の展開を自律的なものとして検討することである。例えば、この作家の強固な表面との関わり方は、ミニマリズム特有の概念の多くを定義づけたものとは一線を画している。「ミニマル・ペインティング」というこの不適当な言葉は、「リダクティヴ」と呼ぶほうがふさわしいと思われる種類の絵画を同定するための手段として、画廊、美術館いずれの展覧会でも絶え間なく使われてきた。 1967年に桑山忠明は、フレームの中で縦に配置され、互いが接した単色のパネル、例えば《レッド》、《マスタード・イエロー》、《ペイル・ブルー》等と題されたシリーズを制作した。この作品の重要な特徴は、色彩がキャンバスの上にじかに施されており、それゆえに、絵画フィールドのフィクショナルな空間内に色彩がいまだ包含されている点である。その主題内容は、ニューマンの《ヴィル・エロイクス・サブリミス》、あるいはラウシェンバーグによる白のパネル《無題》と同じように最小限にされている。いずれの作品も1961年に制作されているので、6年後に描かれた桑山による垂直性を持った単色作品の先駆けとして挙げられるだろう。
絵画は、それがコンストラクティヴであれリダクティヴであれ、フィクションとしての空間を保持するのに対し、ミニマル・アートは本質的に「物体」に関わるというのは、ドナルド・ジャッドによって確立された要点である。芸術が、表面が生むフィクショナルな空間を手放し、しかもそれによって必然的に彫刻(造形的な完成を求める上で、様々な部分が「相関的」であるという意味での彫刻)にもならないとき、さらにその物体としてのフォルムがリダクティヴでニュートラルな立場を保持しているとき、一般的には規格品でつくられるとき、初めて私たちはミニマル・アートについて語ることができる。この立場を支持する手法は、言語学的フォーマリズム(グリンバーグの美学的フォーマリズムとは無関係)の一種ではあるだろうが、結果的にはフォルムというものに、より明確に言えば、与えられたコンテクスト内における物体のフォルムというものに、永久に直接的に関与している(1)。桑山によるごく近年のモジュール式作品がそれと異なっているのは、彼のフォルム(パネルもしくは線的な要素)が、与えられた空間内で成立するというよりもむしろ、基本単位(モジュール)の等価と反復によって新しい空間を創造するために設計されている点である。その結果、ある反転現象、もはやフォルムそのものではなく、それが置かれているトータルな空間が強調されるという現象が起こり始める。ここにおいて初めて鑑賞者は、全く別のアプローチを取り始めるだろう。造形的要素に注意を払って弁証法的に空間を把握するといったようなことを行うかわりに、フォルムは(彩色されたベークライトのパネルを繰り返し用いるときに見られるように)視覚的に空間内へ後退してゆく。パネルの配置を通して成されたフォルムの空間への後退は、作家が「無限」と呼ぶ地点、始まりも終わりもない空間、「純粋な」空間へ到達する。つまり、フォルムは消滅し、空間が創造される。
桑山は、基本単位となる要素の反復によって空間を変容し、全く新しいシンタックスを生じさせて、空間が身体的にも概念的にも自然に了解されるようにする。これは近年、1996年に千葉市美術館と川村記念美術館のために行われたインスタレーションにおいて明らかにされた。それぞれの館で、大きさ、基本となるフォルムが異なり、またベークライトの組合せによって制作される一方で、マイラー、ガラス、アルミニウムでも構成されるなど、様々な要素が用いられているにもかかわらず、強調されているのは「彫刻」ではなく、基本単位の使用による空間の変容であり、また、要素の反復および配置に伴って起こる消滅というコンセプトである。桑山のインスタレーションでは、空間はこの逆転の過程を経て物体となる。素材は、新しい種類の空間のリアリティへと向う道筋をつくるための、そして空間を生成するための手段に過ぎず、それは日本の15世紀の偉大な風景画家、雪舟の試みに近い。 桑山は好んでこの種の空間を「絶対的」と呼ぶ。まるでそこには始まりもなければ終わりもないかのように、そして時間への転化が瞬間の始まりであるかのように、さらにその瞬間が、知覚的な意味での全体性、すなわちゲシュタルトに関して絶対的であり、明瞭であり、絶えることのないものであるかのように。ここには、アド・ラインハートに特有だとしばしば見なされる揺るぎない言質を再び思い起こさせるような「純粋性」がある。桑山におけるこのコンセプトの最も明晰な解釈の一つは、日本の批評家、多木浩二によって記述された(2)。 この種の「純粋空間」は、何の干渉もなく、何の現世的な介入もなく、実現された想像上の空間である。多木の「純粋空間」という記述は、ミニマル・アート、特にダン・フレヴィンの光のインスタレーション、ドナルド・ジャッドのスタック、ソル・ルウィットによる高く積み重ねられたグリッドの構造、カール・アンドレの合金による板に近いという指摘もあるだろう。それは、ロバート・ライマンの「ホワイト」ペインティングにすら当てはまるかもしれない。(枠の縁に対する関心を向けていても、ライマンはミニマリストとは見なしえない。)しかし先にも記したように、桑山の最近のインスタレーションとこれらの作家の作品とを造形の上でもコンセプトの上でも区別する、別の要因がある。ここで問題なのは「純粋空間」―歴史の流れからとにかく切り離され、完全に想像上の世界の中にある空間、現象学的ネオ・プラトニスムと、雪舟の「驚くべき空虚」の間にあるような空間―の隔絶性をどのように捉えるかである。 神学者のポール・ティリィシュはかつて、歴史的な時間の感覚が失われた状態として「悲劇の空間」を語った。ティリシュの神学に対する視覚的な異議として桑山は、整然とした間隔によって生まれる抽象作用と、物理的空間の印象を軽くする律動的な区切りによって、フォルムの空間への反転現象を引き起こす。空間を支配するものの前提が突如フォルムの後退と化し、その結果、瞑想的な「純粋空間」が、意思に貫かれたものとして鑑賞者の意識の中で広がってゆく。例えばそれは、近作の電解を施したアルミニウムパネル(彼が「チャネル」と呼ぶもの)、19cmの2つのチャネルが繋げられ、選ばれた二色が交互になったパネルに見出せる。またそれは、ワックス・プレスの技法によって3枚の紙が層状に張り合わされたこうぞ紙の作品にも見られる。基本単位となる要素を反復して用い、青から赤へと3回変化させながら6つのユニットのそれぞれに桑山は鉛筆でたった1本の水平線を引く。
桑山が主張する「純粋空間」というものは、悲劇的な空間というよりも、喚起、解放、もしくは端緒であり、重々しい実存的なリアリティへと私たちを引き降ろす陳腐さを超越する、もしくはそうしたリアリティを否定する一瞬、あるいは瞬間瞬間を可能にするのだと主張することもできるかもしれない。桑山は、彼の芸術の望ましい結果は、「何かこの世のものでないもの」になることだと語ってきた。いいかえれば、私たちがマス・メディアや私たちを取り巻く悲劇的な出来事を通してすでに知っているものを超えるということだ。彼は表現する、あるいは社会的真実を表明したり、芸術に対して新しい全世界的な規範を呈示することには関心を持っていない。基本的に桑山は、彼のトータルな芸術の形態を通して獲得されうる純化された経験といったものに興味を持っている。彼が、「何かこの世のものでない」と語ったものはまさに無限性の知覚のことであり、人がいまだ受容していない何かを幸運にもかいま見ることである。人はそれをサイエンス・フィクションと呼ぶかもしれないが、それは安易すぎる。それはSFではないのだ。 私は広本伸幸が示した能役者の「離見の見」という概念を好ましく思う(3)。能の偉大な役者の一人である世阿弥の著書から引用した広本によれば「離見の見」とは、役者が他者によるイメージを内面化することによって自分自身を見つめる方法であるという。この概念には確かに現象学的な含意があるだろう。もしくは、西洋の「ゲシュタルト」、ある空間的な場における全体性の感覚に近いように思われる。ただしそれは、「ゲシュタルト」の知覚に関して行われた西洋の合理的分析を超越しているのだが。桑山の芸術は根本的に、フォルムと空間の反転によって物理的中心が「純粋空間」の場へと変容する過程を通して、知覚という行為に関わっており、これはまさに鑑賞者の体験なのである。それは、ミニマル・アートのプラグマティックな物体性からは遠く隔たっている。しかしながらそれでもなお桑山は、彼の作品が持つ本質的な物質性を否定してはいない。いや正確に言えば、基本的フォルムの連続として、この物質性を知覚する行為は、いかにしてスピリチュアルな体験が持つ絶対的な静寂さを私たちに与えるかに関心を寄せているのだ。 [註] 1.美学的フォーマリズムと言語学的フォーマリズムの相違は、『アーツ・マガジン』64, No.4(1989年12月)掲載の「逸脱した装置としてのフォーマリズム」で分析、論じられている。 2.多木浩二「桑山忠明のニュー・プロジェクト」『桑山忠明プロジェクト '96』展(川村記念美術館、1996年6月1日〜7月21日/千葉市美術館、1996年6月15日〜8月18日)54ページ。 3.広本伸幸「離見の空間 桑山忠明 プロジェクト'96に先立って」同上、61ページ。 (訳:加藤瑞穂) |
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