<序文>
芸術作品は、世界に潜在する見えない力を喚起して充実するかぎり、芸術として存在する。それはわれわれがまだ知らない力かもしれない。われわれがどんな解釈を施すにしても、すべての理解はこの言語化しにくい力を確実に知覚することから始まってる。作品は、現実的には、言うまでもないが形と色、それに素材からできている。これらのある形式から、現実の世界を突き抜ける大きな力が生じてくる。こうした作品がいかなる既存の対象への連想も拒否するとき、その作品を「抽象」と言うことが可能になる。連想の拒否は、作品が自然に属していないこと、あるいは社会的な現象から可能なかぎり脱していることを意味する。こうして「抽象」は世界を表象することを拒否するが、その場合にも、芸術は自己言及に止まることを意味するのではない。作家の想像力は、いかなる場合にも、彼自身が現代の世界を生きる根源的な経験に基づいている。桑山忠明が、ごく初期の時代以来、探究してきたのはしてきたのはこのような意味での「抽象」である。芸術がどんな様相で世界に出現するかは、作家による芸術と世界についてのステートメントである。
この六回のシリーズをなす展覧会で提示される作品自体は、桑山忠明の現在の作品ではなく、かなり古い作品に属する。しかし彼の作品の軌跡を辿る回顧展ではない。このシリーズは、逆説的に聞こえるだろうが、彼自身からも離れ、ほとんど世界に属するようになった彼の古い作品にもう一度立ち返り、彼の現在の芸術活動に繋がる「芸術という存在」のさまざまな様態を提示する試みである。このシリーズでは、彼の芸術を、ほぼ年代と手法によって区分してはいるものの、作品の系譜を網羅しているわけではない。それぞれの展覧会は独立している。観客は一回ごとに違った世界に足を踏み込むような経験をするにちがいない。しかし同時に、これら異質で多様な全体を通じて、彼の作品が芸術として、どのように世界のなかに存在しているかを理解することになるだろう。
たしかに制作された年代は古いし、彼自身、すでにはるかに進んだパースペクティヴのなかで作品を作りつつあり、ここで展示する作品とは異なる地平があらわれつつある。したがってこのシリーズは、彼の現在の作品から、その「芸術」を理解するのとは異なる経験ではあるが、これらの作品から現在の彼の芸術に通じる芸術の思考が浮きだしてくるような環境を作ることができないか。そうすることでわれわれは、彼が、今、手探りで進みつつある過程での「芸術」の思考を理解する手掛かりになるかもしれない。このシリーズの目的はそこにある。
幸い、ここにひとつの中性的な空間がある。この空間をベースに、一回ごとに異なるインスタレーションによって、さまざまな次元で芸術を浮かびあがらせる可能性がある。おそらくその度ごとに観客はちがった経験をし、その経験から、それぞれの作品がどのように存在しているかを了解するにちがいない。抽象とはたんなる形式の問題ではないし、芸術の理解とは、同時代の他の芸術作品との影響関係や作家自身の発展を論ずることでもない。観客がこの経験からはじまって、芸術を世界認識の方法にしていくことができればよいのである。作家が送りだした芸術が完成するのは、観客がこのように受容した時であろう。
このシリーズでは、展示する作品の数はきわめて限定し、厳選されている。これらの作品をインスタレーションするとは、ただなんの意図もなく、壁に並べて掛けていくのとはちがい、作品に応じて異なる空間を生み出すように企図されている。極端な場合には、もっとも離れた壁に二点の作品を掛け、あるときにはたった一点の作品しか展示しない。その一点の作品が存在する力が、もともとは中性的な空間を意味に充満させ、その空間が作品の力を理解させていくだろう。
作家が、過去を超えて、作品を進める時、ひょっとすると過去が自分の前方にあるかもしれない。過去と未来という区別ではなく、作家は見知らぬ世界を出現させる作品の力をいかにして強力なものにしていくかを探究するものである。そんなことを了解した上でなら、このシリーズを経験することは十分な意義をもっていると思われる。 |
第一回展 レッド、ブルーそしてイエロー
1994年9月5日−30日
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この一連の作品は、桑山忠明のもっとも古い部類に属する。画面はほぼ同じ比率の縦長であり、それを均等に二分割(三つは上下に、一つは真ん中で分割)する色面で構成されている。色彩の組み合わせは、レッド/ブルー、レッド/イエローの二種類である。それぞれはさほど巨大でないから、四つの画面を比較的均等に配置して、鮮やかな色彩、滲み出る質感、作品のスケールの差異のリズムで空間を構成する。この空間のなかで、それぞれの画面は、レッドを鎖の環のようにして他の作品に連続してゆく。こうした色彩の交錯から発生する空間のなかで、われわれはあらためて個々の作品に向かいあう。われわれはそれぞれの画面の、思い切りのいい二分割にあらためて注目する。
ピグメントの画面がマットな質感をもつことも作用して、この空間ではまだ人間の次元が支配している。しかしわれわれは鮮明かつ華麗でもある空間に浸りながら、その空間が「抽象」の本質に浸透されているのに気づく。それぞれの作品は、たしかになんの表象でもない。ただそれらはわれわれの感性の射程をさほど遠く離れていない。しかしいくつかの点で、すでに人間的な世界を超えていく兆しがある。
まず色彩の対比とその組み合わせは、いかなる意味でも情緒を拒否している。ついでわれわれを慣習から引き出すのは、プロポーションである。等しい面積に分割されていることと、それぞれの色彩の広がる力とは一致しない。たとえば赤は広がり、青は収縮する。しかし現実の面積は等しい。この関係はわれわれのなかに微妙な違和感を生みだす。それが人間的に慣れた感覚に支配されていた空間から抜け出すきっかけになる。われわれは桑山忠明が抽象に託していた芸術の能力が、こうしたひそかな超越的方向への力のなかに存在することに気づくのである。 |

第二・第三回展 金属のフレーム
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1994年10月1日−31日
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1994年11月1日−30日
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この二回の展覧会の作品は、同じ傾向のものである。この二回とも、非常に強い空間が発生する。瞬間的に、われわれはこれらの空間の豊饒性に身を委ねている。しかもそこにある異質な感覚こそ、われわれの想像力を駆り立てる。
桑山忠明は、これらの作品で、概念的に絵画と思われていた一体的で、連続的な平面を解体している。作品は金属の枠に縁取られ、自立しているとも言える要素を結合してできあがる。そのひとつひとつはキャンヴァスを下地にしているが、完全に平滑に塗られた色面である。この飛躍が桑山の「抽象」の次元をあたらしくひらいたのである。
第二回展は四つの作品からなるが、かなり多様性に富んでいる。中心になるのは強烈な色彩、レッドのかなり大きな作品で、それぞれ金属で縁取られた三つの均等な縦長の面を結合したものであり、きわめて強いステートメントをもっている。この作品を配置するときに、もともとは中性的であると思われた展示空間の、いわば基底になる壁がはっきりと見えてきたのである。以後、どのインスタレーションも、この壁をもっとも中心的な場所と見なすようになった。したがってこれに対抗するのは、反対の隅角を形成する残りの三つの壁面になる。レッドの作品の真向かいに二つの面を結合した、やや小振りのブルー、その両側にオレンジとピンクの小品が向き合って置かれる。これらはいずれもサイズがちがうだけではなく、分割(結合)の仕方が異なる。とくに小品ではあるが、オレンジとピンクは、対角線で分割(結合)されているが、これはひそかに垂直と水平に構造化されてきた絵画の面の性質を決定的に否定している。この違和感は作品を絵画から解放するのに役立っている。
色彩はいずれも鮮明すぎるほど強烈であり、中心となったレッドと呼応して多様化し、全体として日常の感覚をはるかに超える豊かな空間がわれわれを取り囲み、われわれはこのなかで、作品を「絵画」から解放し、かつ「表象」からも完全に切れた「抽象」を理解する悦びを味わうことになる。
第三回展も、作品の構成の仕方は第二回の作品と同じである。しかし今回は、中心になる作品はこれまでになく、高さ三メートルを超える巨大な作品である。マスタード・イエローとペール・ブルー、いずれも四つの細長い面(いうまでもなく金属枠がある)を結合したもので、その二点を空間の基底をなす壁に並べている。この二点の掛かった壁面は、第二回のときの、いささか強烈な色彩と異質性に比べると、はるかに壮大な力をもつが、同時にあまりにも魅惑的な美しさをもっている。つまり深読みになるが、この時点では、桑山忠明は美的なもののもつディグニティに取りつかれていたのかもしれない。これほど強い壁面が生まれてしまうと、残りは多少ともアンバランスであってよい。その結果、ベージュとパープルの、十字に分割(結合)された作品は奥のひだりの隅を形成する二面の壁に掛けられた。それ以外の壁は空白に残されたのである。その結果ある種の流動性が空間に生じた。われわれはここからこうした作品群がスタティックな形式主義でないこと、それが作家が危機的な世界のなかで、発言せざるをえなかった純粋性についてのステートメントであることを了解できるのである。 |

第四回、五回展 異形の作品
1994年12月1日−28日
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1995年1月9日−31日
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この二つの展覧会で、われわれは作品の存在性が以前にもまして強力になり、あたえられた空間を支配する力があきらかに変化したのを経験する。
空間を構成するために作品を万遍なく配置する必要はほとんどなくなった。第四回ではただ一点、第五回では相対する二点だけで、そこに空間が生まれた。このことから、われわれは芸術の力をこれまでにもましてはっきりと経験するようになる。
作品は、いずれも金属枠に包まれた細長い長方形の要素を結合している点では変わらないが、第二、三回の作品がいずれも全体としては長方形を維持していたのにたいして、ここで展示する作品は円、三角形、さらには長さのちがうパネルを、そのエッジが半円形になるように併置した異形をなしている。このことはシェイプド・キャンヴァスを目指したというより、以前にもまして、作品の意味の発生を、要素の結合だけでなく、作品のトータリティに重点をおいた結果と考えるべきであろう。長方形という、ある意味で従来の絵画に慣習的にあった形式から作品を解き放つことができるトータリティへの確信が生まれた。もちろん全体の形態は、要素の結合、その色彩の差異を孕んではじめて意味を発生する。しかしここでは色彩は力強いが、ベージュからブラウンにいたるまでの比較的、対比に違和感を生じさせない範囲で選択されている。
第四回は、幅五メートル近い巨大な作品をたった一点だけを展示する。この一点の存在感は、完全に空間を支配し、空間を充実させる。観客は、この空間のなかに浸りながら、精神の緊張を感じないわけにはいかない。作品は十二本の縦長の面(金属の枠に囲まれている)を、中央に二メートルを超すもっとも高いパネルを置き、そこから左右に対照的に次第に短くなっていくが、その高さは半円形に接するように決め、底辺を一直線に揃えて結合したものである。これがかなり低い位置にインストールされたのも、この作品の強さを感じさせることに寄与していると言えよう。
内部の色彩として、メタリック・ピンクとイエローが相互にあらわれる変化を含みながら、この作品は、あくまで全体として存在する。この作品は、ほとんど人間を超える壮大さと、どこかにその超越さを逸脱する目に見えない軽快さとの両方をもっている。彼は人間の世界を超えようとし、まだ見たことのない経験をそこに構成しながらも、その作品で世界の歴史を閉じようとはしていないのである。観客は圧倒されると同時に解放感を味わう。
第五回のインスタレーションは、二点の作品を展示する。いずれも高さないしは直径が二メートルを超す大きな三角形と円形の作品を空間の長軸方向で遠くから相対する壁面に向き合って置かれた。両側の壁は空白のままである。その結果、二つの自立的な声が互いに譲らぬまま、無限の形而上的対話をつづけているような状態が発生する。このインスタレーションが生みだす空間に身をおいた観客は、言語化はできないものの、桑山忠明の徹底した「抽象」が目指すものが、それ自身で世界であり、あるいはこれまでの世界になかったようなものであることを知覚することになる。それらは多分、他の作品と混じり合って、美術館に展示されている以上に、この空間を構成することから明確になってきたのである。 |

第六回展 繊細さと未知なもの
1995年2月1日−28日
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| 最後の展示は、再び、一点だけになる。この作品では金属のフレームをもはやもってはいない。メタリックな色彩の面が二つ、結合されて存在する。ある意味で、もっとも単純な構成をもつこの作品は、作家としてもっとも危険な冒険を試みた作品である。強烈な色彩や異形の作品のもつ、それ自体でおのずと知覚できる強さのあらゆる手段を避け、金属のフレームを外すとともに、この二枚のパネルの色彩には微妙な差異しかあたえていないのである。作家は、繊細きわまりない感受性で、ほんの僅かな差異をもつベージュとブラウンを併置した。この作品の存在感は強烈というべきか、あるいは不確かというべきか、多分、観客は一瞬の戸惑いを感じるかもしれない。しかしやがてそれが存在することと存在しないことの微妙な境界に出現しているのを感じるのである。桑山の作品の幾何学的かつ超人的な性質に引かれてきたものにとって、彼がいわゆる「繊細な精神」、したっがってつねに人間には未知として残される世界への詩的想像力による探究から作品を作ってきたことを、あらためて発見させるきっかけになる。インスタレーションはこの作品の受容経験にとって重要な役割をもつ。作品はすでに何回も述べてきたこのスペースのもっとも中心をなす壁面に置かれる。残余の空間はすべて空虚なままである。高さ三メートルを超すサイズは、充分、この空間のなかに入った観客を吸いよせる。人びとはそこにある作品に、視線を吸引されるだけではない。その作品という実体に突き当たるのでもない。作品は力で強引に説得するのではなく、観客にまったくあたらしい経験をさせる。存在と不在の微妙な境界にあるこの作品は、見る人々に異界に誘う開口部のように知覚されるのである。このような表現が比喩的な言い方に過ぎるとするなら、桑山忠明は、人々が現実世界で感覚的に経験していない対象の経験こそ芸術の経験だと考えていることが、明確なステートメントとして示されているというべきであろう、このインスタレーションは、芸術の微妙な本質を集中的に表現する空間になっているのである。 |
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