鈴 木  隆  
 

 

2007年6月9日(土)−6月30日(土)
 
 絵画が本来持っている豊穣な表現要素を切り捨てて、尚も残る静謐な強度の為に。色彩は支持体であるものに浸透し色面としての光彩を放つ、その自明性に再度集中する眼差しによって導かれるもののあり方に関心を持ち続けています。(作家コメント)
 
1. Text No.600 acrylic, ink on cotton 182 x 182 x 40 mm 2006
2. Text No.653 oil on paper 760 x 570 mm 2007
3. Text No.648  acrylic, ink on plywood 100 x 150 x 9 mm 2007
4. Text No.597 (Rose)  acrylic, ink on cotton 221 x 277 x 32 mm 2006
5. Text No.643  acrylic, ink on cotton 810 x 1303 x 40 mm 2007
(左より)
 
5. Text No.643  acrylic, ink on cotton 810 x 1303 x 40 mm 2007
6. Text No.582 acrylic, ink on cotton 1310 x 805 x 45 mm 2006
7. Text No.608 (light) acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 33 mm 2006
(左より)
 
5. Text No.643  acrylic, ink on cotton 810 x 1303 x 40 mm 2007
6. Text No.582 acrylic, ink on cotton 1310 x 805 x 45 mm 2006
7. Text No.608 (light) acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 33 mm 2006
8. Text No.599  acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 40 mm 2006(左より)
6. Text No.582 acrylic, ink on cotton 1310 x 805 x 45 mm 2006
7. Text No.608 (light) acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 33 mm 2006
8. Text No.599  acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 40 mm 2006
9. Text No.651  oil on paper 570 x 760 mm 2007
(左より)
 

8. Text No.599  acrylic, ink on cotton 232 x 160 x 40 mm 2006
9. Text No.651  oil on paper 570 x 760 mm 2007
(左より)

 

  静謐な赤、覚醒する赤 ? 鈴木隆の芸術について        梅津 元(芸術学)

 「赤は、放出される量と、そこにとどまる量が、ちょうど半分ずつなのではないかと思う。それが、自分が、赤、スカーレットにこだわる理由だと思う。」(1)

 この言葉は、鈴木隆の芸術を理解する上で、非常に示唆に富んでいるように感じられた。この言葉では、色彩の「放出」と「滞留」によって示されている「均衡」あるいは「拮抗」という事態が、色彩という局面のみならず、鈴木隆の芸術の本質的な特徴として指摘できるのではないか、そう直感されたからである。

 この直感に従い、鈴木隆の芸術の過去と現在を知る人の多くが持つであろう、「鈴木隆は彫刻から絵画に転向したのか?」という素朴な疑問を出発点に、「彫刻」と「絵画」の「均衡/拮抗」という鈴木隆の芸術における最もスリリングな局面への接近を試みてみたい。

 本展に出品されている作品は、一見したところ絵画に見える。より正確に言えば、私たちが絵画と呼んでいる対象と、限りなく近い姿をともなって立ち現れているため、それらが絵画と呼ばれることは否定できない。しかし、鈴木は、彫刻から絵画へと転向したのではなく、現在でもなお、彫刻制作のスタンスを持ち続けている。

 かつて金属を素材とした彫刻を手がけていた鈴木は、素材に対しての働きかけをそぎ落としていくことにより、より純粋な表現をめざしていた。しかし、その結果、ほとんど手を加えられていない物理的なものへの過度の依存という難題に直面してしまう。

 一方、発表することを前提とせず、自らの欲求に従って、手近な廃材や材料に色を塗る作業を始め、現在へと続く赤/スカーレットの作風を展開させてきたという。こうして制作される作品には、「木(パネル)/布(カンヴァス)/紙」など、異なる素材が併用され、その「大きさ/プロポーション/厚み」は様々である。それらは絵画的な性質を備えてはいるが、絵画と言い切るには抵抗を感じる。彫刻とは言い難い形状を伴っているが、作品経験においては、彫刻的な資質を十分に備えていると言える。つまりは、「絵画」的特性と「彫刻」的特性が、「均衡/拮抗」しているのである。

 もう少し具体的に言えば、鈴木の手がける赤のシリーズは、単体としての完成度を十分に備えているとはいえ、その潜在的な魅力が遺憾なく発揮されるのは、複数のピースが選ばれ、空間全体に配置された時なのである。その時、個々のピースの大きさ、プロポーション、厚み、材質といった形態的特徴/物質的特徴が、色彩の経験とともに、極めて重要な位置を占めていることにこそ、注目すべきなのである。そこでは、「色彩の経験」と「存在の知覚」が不可分に結びついている。このような特徴は、次のような鈴木の言葉からも明らかである。

 「私が他の色を差し置いて「赤」に特別な興味を抱いているのは、この矩形の色彩に神秘性といった類のものとは異なる普遍的な精神の定数を託することができると感じているからです。(中略)そしてなによりも簡素なコンポジションと設置位置に呼応する静謐な精神内容に、或る中断の印象をともなった覚醒とその後のゆるやかな思惟の場を創造するものです。」(2)

 同様に、ドナルド・ジャッドは、赤という色が形態の明瞭化に適していることを、あるインタビューの中で次のように述べている。

 「私は赤という色が好きで、カドミウム・レッドがはらむ特質が気に入っている。色彩についていえば、私はそれが三次元的な作品に対して正当な価値を有していると思う。もしあなたが何かを黒、あるいは何か暗い色で塗ったとしたら、その輪郭は判然としなくなる。白を用いたならば、それは小さく、純粋主義的に見えてしまう。暗いバルールを伴わない赤というのは対象を明確に見せ、輪郭や角度を明瞭に限定する唯一の色であるように思えるのだ。」(3)

 鈴木隆が支持体として選んだのは、様々な「大きさ/プロポーション/厚み」を備えた、「木(パネル)/布(カンヴァス)/紙」である。そこに、「油彩/アクリル/インク」による「赤/緋色/深紅色/スカーレット」が与えられる。「側面まで塗られた/側面のある部分まで塗られた/表面だけ塗られた/表面の一部を残すように塗られた」、その矩形の赤は、支持体の物質的な特徴を完全に覆い隠してはいない。

 最後に、比喩的な言い方が許されるならば、むしろ、色彩そのものが成分となり、支持体として選ばれている物質が形成されているかのようにも感じられはしないだろうか。

「木(パネル)になる赤/布(カンヴァス)になる赤/紙になる赤」、というように。

 静かに、そこに、とどまっている赤。その画面に滞留している赤は、視覚を通して見る者の意識を研ぎ澄まし、精神を静謐に保つことだろう。

 強烈に、そこから、解き放たれる赤。その画面から放出される赤は、視覚を通して見る者の知覚を活性化し、感覚の覚醒を促すことだろう。

(1) 2007年5月、アトリエにおける鈴木隆の発言より。
(2)鈴木隆「綴りの色彩/制作メモより」(『Hand in Hand Contrast』2004)
(3)ジョン・コプラン(訳:尾崎信一郎)「ドナルド・ジャッドへのインタビュー」1971
(『Donald Judd selected works 1960-1991』1999)

その他のサイト
「数寄者達ー琳派以後の方法No6」第三章